ダブル・スタンダート:4

クライアントに寄り添う占い師・占いカウンセラーの皆様

こんにちは!

占い師の集客とリピートを応援する

占いカウンセラー、スピリチュアルカウンセラー養成講師、

スピリチュアルビジネスコンサルタントの

ミスカトニックです

さて、またまた「ダブル・スタンダート」の続きなのですが…

やっぱり、このコラムってどうなんでしょうねぇ。

別に「やめろ」とかいう意見は全くなく、むしろ…

「面白い」

「参考になる」

というご意見が多いのですが…。

でも、決して読みやすい文章とは言えないのは間違いな事実。

でね、思ったんです。

さっさとアップして、そろそろ通常の話に戻ろうと(笑)。

ということで、ブログテーマに「コラム」を追加しました。

そして、今日明日中に数回に分けて全文アップします。

読みにくい文章を一気にアップされて、読まれる方も大変かと思います。

ただ、変に時間をかけるよりもこっちの方が良いのではないのかなぁ、と思ったりもしています。

さて、そういうわけで今回アップするテーマは…

「クライエントの苦痛の緩和」

です。

占いの場合は特にそうなのですが、「(願望成就まで)どのくらい時間がかかりますか?」という質問をよくされます。

心理カウンセリングの場面ではあまり出てこない質問なので、最初は戸惑いました。

ただ、この手の質問がされる理由もよくわかります。

中にはこの時間に関する質問を嫌う占い師の方も多いのですが、しかしクライエントにとっては切実です。

なぜなら、時間がかかればかかるほど辛い時間も増えるわけです。

そして、時間の経過とともにリスクも増えます。

クライエントの多くは時間の長さを不確定要素の増加と受け止めます。

「うかうかしているうちに、どんどんと状況は悪化していく」

と解釈するんですよね。

でも、今すぐ行動しても成果が出る可能性は低い。

だから、時間をかけるのは成果を出すための戦略です。

しかし、その戦略には不確定要素つまりリスクの増加を意味します。

これを埋め合わせるのが精緻なアドバイスなのです。

ただいたずらに時間をかければ、当然リスクは大きくなります。

しかし、その時間を有効活用できれば、結果が出る可能性は高まります。

ただ、その間のクライエントの苦痛も考えなくてはなりません。

…というあらすじのコラムです(笑)

では、続きをどうぞ。

※ ※ ※
目に見えないもの、耳に聞こえないものを信じるのは、並大抵の事ではない。

客観的な検証なくして「信じろ」というのも、目隠しをしてある場所へ連れて行って、「絶対に死なないから、飛び降りろ」と言うようなものだ。

だから私は、鑑定において信じることを美徳とはしない。いや、正確に言うと、「鑑定士の発言を盲目的に信じる」事は可能な限り避けるようにしている。

鑑定内容の客観的な検証は困難である。しかし、完全な検証が困難でも、相手の性格や状況から導出される検証可能な対象は存在する。

そうした対象については許される範囲内で実行され、その上で、信じるに値する客観的要素の確認を行う。

たとえ私の発言が信じられなくても、客観的にあるものを疑うのはナンセンスであろう。

そうした疑い得ないものを積み重ねる事によって、苦境の中にあっても、信じることができる希望や成就の可能性を見出せるようにせねばならない。

鑑定は、相談者が可能性の存在について信じられる根拠を立証していく過程でもあるのだ。

その根拠を構成する要素に形而上学的なものや主観的なものを多分に含めたのでは、立証の意味がない。

勿論、霊感を使うのだから、霊的なものが根拠の一部を構成するのは確かだ。

しかし、霊的なもののみを以って根拠とし、それを信じるように求めるのは無理がある。

必要なのは、相談者が日常の生活や努力の過程において、ある程度容易に見出す事ができ、そして確認し、信じる事ができるような根拠なのだ。

不安を感じたときに「大丈夫」だと思う事ができ、恐怖を感じたときに「可能性はあるんだ」と認識できるような根拠を、私は求める。

だから、「私には見えているから、だから信じろ」とは、私にはとても言えないし、言いたくもない。

「信じろ」と言わない理由はもう一つある。先述したように、半年であっても5年であっても、その間に相談者が受ける苦痛や絶望は計り知れないものがある。

そうした状況において、結果が出る事を信じ続けることは確かに重要かもしれない。

しかし、相談者の主観的な幸福に我々がこだわらなければ、別の選択肢が現れるのも事実だ。

問われるのは相談者の幸福であるのであれば、相談者の願望に拘束されさえしなければ、客観的な幸福を作ることは可能だ。

たとえそれが相談者が幸福を実感する事ができないようなものであっても、しかし、永遠ともいえるような苦しみに耐えるよりは、早い段階で別の幸福を見つける方が適切ではないかという価値判断も働く。

だから、信じることを求める事によって、相談者を相談者の願望に必要以上に拘束したくないという判断が成り立つ。

要は相談者が幸福になれればよいのだ。

相談者が願望をあきらめる事によって、別の幸福を見出し、それによって今の痛みが治癒され、願望成就と同じまたはそれ以上の「客観的な」幸福が実現されるのであれば、それは決して無駄な事でもいけない事でもない。

私には、それはそれで一つの価値のある選択だと思える。

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